加賀本多家の歴史・名品

加賀本多家の歴史

本多政重肖像画

本多政重肖像画

 「加賀百万石」と称される加賀藩前田家には多くの藩士が仕えていましたが、そのなかでも最上級の藩士が8家ありました。彼らは1万石以上の禄高を与えられた大名クラスの重臣で「八家(はっか)」と呼ばれ、藩内では家老よりも上位となる年寄役を務めて政務を統括します。また、戦時には前田家中に編成される軍団の長となり、部隊の指揮を務めました。加賀本多家はこの「八家」のうちの1つですが、そのなかでも最高の禄高5万石を与えられています。江戸幕府から1万石以上の領地を与えられた者を大名と言いますが、その多くは5万石に満たない禄高でした。このようななかにあって、前田家の家臣に過ぎない本多家が5万石を拝領していたことは、全国的にも破格の待遇だったと言えるでしょう。
 加賀本多家の初代は、徳川家康の重臣・本多正信の次男、本多政重(まさしげ)です。彼は当初、徳川家に仕えましたが、その後、様々な大名家を渡り歩くことになります。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いには宇喜多秀家の家臣として参加し、西軍で活躍しました。また、慶長9年(1604)には上杉景勝の執政・直江兼続の養子となり、上杉家に仕えます。さらにその後、慶長16年(1611)には加賀藩前田家へ仕えることとなり、それ以降、初期加賀藩政を支える重要な役割を果たしました。
 この初代・本多政重以降、加賀本多家の歴代当主は年寄役として加賀藩政に参画し続け、重要な役割を果たしました。特に幕末においては、11代当主・本多政均(まさちか)が執政として藩政を主導し、江戸幕府と京都の朝廷との間で揺れ動く困難な政局を乗り越えていきます。
 また、本多家は前田家中でも別格の扱いを受けており、藩主前田家からは2度にわたる姫君のお輿入れがありました。前田家3代利常六女・春姫(はるひめ)は本多家2代政長に、前田家12代斉広七女・寿々姫(すずひめ)は本多家9代政和に嫁しています。
 なお、現在、15代当主・本多政光が加賀本多博物館の館長を務めています。


加賀本多博物館のあゆみなど

 加賀本多家には、先祖より伝来した数多くの資料が所蔵されていました。そのような資料を中心に、石川県と本多家の共同出資によって財団法人を設立し、昭和48年(1973)に金沢市出羽町の旧金沢美術工芸大学附属図書館を利用して開館されたのが藩老本多蔵品館です。その後、平成27年(2015)4月、藩老本多蔵品館は、石川県立歴史博物館のある「いしかわ赤レンガミュージアム」の第3棟へ移転し、館名を加賀本多博物館と改称いたしました。
 当館の収蔵品は、加賀本多家に代々受け継がれてきた甲冑・刀剣などの武具類や調度品を中心に、前田家からの拝領品、古文書など多岐におよびます。武具には、初代・本多政重が関ヶ原の戦いで使用したと伝わる鎧や兜をはじめとして、政重所用の品が多く収蔵されています。馬具には、鞍や鐙だけでなく、馬の沓や髪巻糸など、非常に珍しい資料もあります。また、前田家からの2度にわたるお輿入れの際、嫁入り道具となった貴重な調度品も多数収められています。
 2,000点余りに及ぶ収蔵品のうち、初代・政重及び2代・政長の関連資料100点余りに火事装束を加えた資料群は現在、石川県指定文化財となっています。このように、当館は江戸時代の武家文化を今に伝え、城下町金沢の息吹を感じることのできる、全国的にも稀少な武家博物館といえるでしょう。
 当館や石川県立歴史博物館、石川県立美術館(加賀本多家の当主らが居住した上屋敷があった場所)等のある一帯は、現在では「本多の森公園」という名前がつけられ兼六園周辺の文化ゾーンとして親しまれています。上屋敷のあった場所の崖下には、本多家の一族が住んだ中屋敷、家臣たちが住んだ下屋敷があり、それにちなんで、辺りには現在「本多町」「下本多町」という町名がついています。下屋敷に住む本多家の家臣たちは、自宅から崖上の上屋敷まで、斜面に設けられた私設の通勤路(中村記念美術館から石川県立美術館を結ぶ現在の「美術の小径」付近)を用いて出勤したと伝わっています。


加賀本多家の名品